以下余談。

 

 

この時、捕虜として三年間、日本で過ごした朝鮮の学者・が記した日本人論が、「看羊録」である。

彼が記した倭奴の描写は、同時代にルイス・フロイスら宣教師が記した記録とは、おもしろい対照を見せる。

 

 

 

 

夷荻(倭人)の等威(上下の区別と威厳)のなさは、甚だしい。彼らの行動の粗雑さ、みだりがましさは、このようなものである

 

 

 

 

姜は、日本の武家政権には否定的で、中国化されていた貴族の時代に親近感を抱いていた。

の礼教的視点から見た倭人の風習は、到底理解できないシロモノだった。

 

 

 

 

昔、新羅人日羅が倭にやって来たが、倭人はこれを尊重して、愛宕山権現として祀って大いに尊んでいる。加藤清正などが、このような鬼(神)をもっとも甚だしく尊ぶのである

 

 

 

 

秀吉は賊魁、その配下は傭奴・市児(奴隷的身分かやくざ者)、と蛮夷の陋劣さを書き述べている。

に代表されるように、この大小の区別(上下の区別と威厳・華夷)を厳しく先鋭化させる事が、彼らの“文化”であった。

 

この為、日本人が良さそうなものには、何でも価値有りと認めてしまう性質は、余程特異に見えたと思われる。

日本は、その歴史的過程から「唐物」「舶来品」という言葉に代表されるように、外国の文物をともかく珍重してきた。

倭人の市には、南蛮のものも、唐・高麗のものも雑多に積まれていた。

儒学者にとっては、このおかしな感覚は、不可解至極としか思えなかった。

 

 

 

 

神の性質について論ずることなく、一切の玄妙を明らかにせんことを期せず、殆ど知らず識らずの間に於いて、その本分を尽くすを以て自ら足れりとする。

 

 

 

 

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先生が理解できなかったものに、日本人の職人気質と、美的感覚が挙げられる。

 

 

 

 

倭人は、ともかく技を尊び、木を縛り、壁を塗り、屋根をふくようなつまらない事にも名誉を与え、その技術を観賞する事だけにも大金を投じる

 

 

 

 

このような技術は、儒学者の感覚で言えば、つまらない雑役であり、礼教では「百工巫医」は低く見られていた。

 

 

 

 

倭人はみすぼらしい茶室と呼ばれる家で、がらくたのような茶器に高値を付けていた

 

※ 当時の朝鮮の器は、簡素なデザインだった。これが、日本人の侘び寂びと、異国趣味と相まって、非常に好まれた。日本の浮世絵師の役者絵が、国内ではブロマイド程度の価値しかなかったのと同様。

 

 

 

 

その“がらくた”を高値で購入する感覚は、ヴァリニャーノ同様奇異としか思えなかった。

ちなみに、朝鮮には日本人のような意味での、茶人趣味はなかった。

礼教的な識者の彼には、古田織部などが茶碗で富を築いていくのは、倭人の愚かな習俗としか思えなかった。

 

 

 

 

 この文化的なギャップは、数百年後、幕末の英国大使オールコックが日本人をロンドン万国博覧会に招待したときに顕れる。

彼が選別した「日本の出品物」のリストに、「あらゆる種類の陶磁器の見本、釉薬をかけたもの、漆を施したもの、素焼きのもの、また壺および変わった形の土器」というジャンルが挙げられていた。

 

 

 

 

彼らのノートはメモやスケッチでいっぱいになっていたが、その様子からは、自国に同じような産業を興す際の参考にするため、十分な手本を入手して帰ろうとしているのが明らかに見てとれた。イギリス人を含めて、過去のいかなる訪問者のなかにも、これほど尽きることのない興味と熱心さとを、一行の全員が見せたグループはなかったと思われる。

 

 

『タイムズ紙』(一八六二年五月二十一日)

 

 

 

 

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先生の「看羊録」は、倭人に対して備える為の建白書であった。

先生は倭人の風習は、低俗と断じたが、現実問題として、再び倭人に来襲された場合、祖国が制度的な改革をしなければ、再び危急の事態に陥ると真摯に述べている。

 

 日本の土着の封建制度は、厳しい信賞必罰と競争原理に根差したもので、その体制が“戦争に於いては”祖国よりも有益である事は、三年間滞在した経験から理解していた。

 彼は、祖国が平時から有事に備えず、人事が恣意的で、本人の能力を全く考慮していない事を指摘する。

 

 

 

 

たとえ張・韓・劉・岳(張良・韓信・劉・岳飛)をふたたび今日に生き返らせたとしても、この状態では逃げ出す以外にない

 

 

 

 

は、防衛上の都合から制度改革を具申したが、残念ながら容れられる事はなかった。

 

その理由の一つに、儒教国家では血縁集団の強固さから、地方に世襲制の分権を認める政策は乱の元となるので、極力回避するという原則があった。

 

これは、日本にも言えた事で、戦国時代などは科挙を昇った役人から見れば、愚かな倭人の失策にしか見えなかったであろう。

 

しかし、精微な中央集権を偏向的に嗜好した為、政治が空疎化していた。

官と民には双務的な繋がりは何もなく、官は民から剥ぎ取るだけの存在だった。

 

日本では、徳川家康が、それらの問題を巧妙に解決して、平和と中央集権と地方分権を、奇妙なバランスの上で成り立たせた。

 

 

 

 

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所謂、日本人の人命軽視について。

 

近い例では、映画「ラスト・サムライ」で、武士は寡兵にて大勢に挑むのを名誉とし、刀剣で鉄砲に立ち向かうイメージが「日本的」とされた。

 

しかし、戦国時代の武士は、南蛮国から鉄砲・大砲を買い漁って、その運用に巧みになる事に心血を費やしていた。

 刀が武士の表芸で、鉄砲は身分の低い足軽のもの、とされるのは江戸時代以降である。

 

は、日本人の死生観について、倭将・倭卒に尋ねた。

 

 

 

 

生を好み、死を悪むのは、人も(他の)生物もその心を同じくするであろうに、日本人だけが死を楽しみとし、生を悪むのは、一体どうしてか

 

 

 

 

倭人は、その問いに答えた。

 

 

 

 

日本の将官は、民衆の利権を独占しているから、将官の家に身を寄せねば衣食の出所がない。胆力の欠けるものは、どこに行っても容れられない

 

刀傷が顔の面にあれば勇気のある者として、重い俸禄を得る。逆に、耳の後ろにあれば、逃げ回る男と見做されて、排斥される

 

だから衣食に事欠いて、死ぬよりは敵に立ち向かって死力を尽くす方がましである。力戦するのは、自分の為であって、主君を思ってではない

 

 

※ 姜も、ルイス・フロイスと同じく、日本の武士が顔に「向こう傷」があるのを誇る風習を不可解に思っていた。

 

 

 

 

生活基盤の為に戦うので、基盤が失われれば、別の基盤に乗り換えるか、それが出来なければ日本では野垂れ死にするだけなので、さっさと諦めて死ぬ他ない、という即物的な人生観に基づいて、当時の武士は生きていた。

 

 

 もっとも、家臣団を維持し続けなければ、如何なる権勢も一夕一朝の夢となり、結局は全てが失われる。

 このため、信賞必罰は徹底されなければならず、実務能力がなければ没落するしかなかった。

そして土地に根ざした世襲という形や、血縁関係を相互に重ねる事で、武士団は纏まっていた。

 

秀吉の苦労とは、生まれつき彼がそのような累代の家臣団を持ち得なかった事にある。

 豊臣政権は、秀吉の魔術的な手法で創り出した、砂上の楼閣同然だった。

 

 

 

 

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先生の偉い所は、祖国を蹂躙した憎い倭奴でも、その制度の優れた部分や、良い性質などは、きちんと書き残している点にある。

 

 

 

 

居処の美しさ、衣食の豊かさ、妻妾のかしづきは、人情のしからしむるところであって、有識者もその思いを免れることはありません。まして、武将ならばなおさらです。我が国の諸将は、士卒に寄食しているので、自利を謀る貧官汚吏になるのは、状況が必ずそうさせてしまうからです

 

 

 

 

朝鮮の朝廷では、降った倭人を殺す方策を示したが、は倭人の性質から、衣食を与えて遇してやればこちら側に立って戦うと分析している。

 

盟約に関しても、倭人は尊守する傾向にあるから、講和条約を結べば少なくとも百年の平和は保障されると述べている。

藤原惺窩などは、必ず三度目の侵攻があるとに述べ立てたが、彼の意見は受け入れられなかったようである。

 

 

※ 儒学者であった藤原惺窩は、日本の武家政権が大嫌いで、明・朝鮮の軍勢を日本に攻め込ませて欲しいと、姜に嘆願していた。

 

 

先生は、その文才を傾け倭人を侮蔑したが、妙に冷めた部分を持っていた。

彼は李舜臣の扱いに強い不満を抱き、彼が信奉する儒教文化からの逸脱すら行った。

 

は再び役人になる事はなかった。

彼の憤りが消えてしまった時、この無益な戦役から得られたかもしれない可能性も閉ざされた。

 

かつて高度で、精微な制度を持ちながら、それを空疎化していく事に、朱子学は文化的な情熱を空費していった。

行政は空疎になり、経済は立ち遅れ、異国の技術を摂取する土壌も育たなかった。

倭人は野蛮であり、中華は尊いという認識だけが強く残った。

 

 

 

 

(『危機の日本人』山本七平 より)

 

 

 

 

 

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